春になったとはいえ、まだひんやりとした風が二日前にショートボブにしたわたしの黒髪を撫でていく。髪を切ったことであらわになったうなじにヒヤッときて、おもわず首をすくめた。
「――おはよ、矢神!」
丸ノ内のビル街へ向かって歩き出そうとすると、わたしに元気いっぱいの大きな声で挨拶の言葉が飛んできた。
後ろを振り向くと、真新しいグレーのフレッシャーズスーツに落ち着いたブルーのネクタイを締めた入江史也くんがJRの東京駅からでてきたところだった。
彼はわたしの高校・大学時代の同級生で、ラグビー部員だったために体も声も大きい。でも乱暴ものというわけでもなくて、面倒見がよくて優しい人だ。たとえていうなら、〝金太郎さん〟みたいな人? ……う~ん、違うか。
実は彼も、今日からわたしと一緒に篠沢商事の一員となる新入社員の一人なのだ。
「おはよ、入江くん。わたしたちも今日からいよいよ社会人だね」
「そうだな。まぁ、部署は別になるかもしんねぇけどさ、お互いに頑張ろうな」
「うん」
わたしは子供の頃から人見知りが激しい。採用面接の時にテンパってしまったのもそのせいだ。これから会社で新しいお友達ができるかどうかも不安なので、一人でも知り合いがいてくれると気持ちが少し楽になりそうである。
……そう、彼はただの同級生で同期入社の知り合い。だとわたしは思っていたけれど……。
「あ、そういやお前、髪切ったのな」
彼は目ざとく、わたしの髪形が変わったことに気づいてくれた。世の中には、女性が髪を切っても気づかない男性がごまんといるというのに。どうして入江くんには今まで彼女ができなかったんだろう?
「あー、うん。社会人になるんだしと思って、心機一転。……どう? 似合う……かな」
切る前のわたしの髪は、肩にかかるくらいの長さだった。就活の時はハーフアップにしていたのだけれど、もう学生気分からも卒業しようとバッサリやってもらったのだ。
「うん、似合う似合う。可愛いじゃん。清潔感もあっていいんじゃね」
「そう? ありがと」
嬉しい感想をもらって、わたしは思わずはにかんでいたけれど――。
ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ ……
スーツのポケットでスマホが震え、電話の発信者の名前を見ると表情が曇ってしまった。こんな日に一番かかってきてほしくなかった相手からの電話だった。
「矢神、……どした?」
「あ……、ううん! 何でもないよ。電源、切っといた方がいいよねっ」
心配して訊ねてきた入江くんにはごまかしつつ、そのまま通話を拒否してスマホの電源を切ってしまった。
――わたしは主任が運転するシルバーのセダンの助手席に乗せてもらい、代々木のマンションまで送ってもらうことになった。……でも緊張して、何だかそわそわして落ち着かない。 それに、いつもならこの席には絢乃会長が座っているはずで。運転席から助手席の間って、親しい間柄の人たちの距離感だよなぁと思ってしまう。「あの……、なんかすみません。会長の指定席を取ってしまったみたいで」 華麗なハンドル捌きの主任がカッコよすぎて直視できず、わたしは前を向いたままとにかく何か言わなきゃ、と口を開いた。「いや、いいんだよ。二人だけで乗ってる時に後部座席っていうのもね、なんか変だし。っていうか、いつも会長には当たり前のように助手席に乗って頂いてるから、そのクセで」「ああー、そういうことですか」 ……う~ん、気まずい。会話が続かない……。「そういえば、会長の助手席デビューも僕のクルマだったんだ」「えっ、そうなんですか?」「うん。これじゃなくて、ボロい中古の軽(ケイ)だったけどね。本人の希望だったから」「へぇー、そうだったんですか……」 今や日本屈指の大財閥のトップであらせられる絢乃会長が、中古の軽の助手席に乗っている姿か……。何だか想像がつかない。「その時の様子って、どうだったんですか?」「すごく嬉しそうにされてたよ。僕に『その若さでマイカーを持ってるだけでスゴい』っておっしゃってたし」「わたしもそう思います」「――そういえば、入江くんってクルマの免許持ってるんだよね? 確かバーベキュー親睦会の時、社用車で買い出しに行ったって久保から聞いた」「……えっ?」 唐突に入江くんの話題になり、わたしはビックリして主任の方を振り向いた。多分、わたしの緊張をほぐそうとして下さったんだと思う。「はい、持ってます。大学の頃、夏休みに合宿免許で取ったって言ってました。でも、クルマは持ってなくて……」「残念だよね、矢神さん。もし彼がクルマを持ってたら、こうして一緒にドライブできてたかもしれないのに」「あ…………、はい……。そうですね」 もしかしたら、主任に見透かされていたのかな? 運転しているのが入江くんだったらよかったのに、なんてわたしがこっそり思っていたことを。「あ、もしかして、『運転してるのが入江くんだったらよかったのに……』って思ってた?」「…………はい」
――その日、終業時間を迎えたけれど、いつも入江くんから来るはずの「帰り、送ってくよ」のメッセージが来ない。「――矢神さん、今日からしばらく僕がクルマで朝と帰りに君の送迎をすることになったから」 そんなわたしは桐島主任から唐突にそう言われ、「えっ?」と戸惑った。「あの……、そのお話ならお断りしたはずですけど。それにわたし、いつも入江くんにマンション前まで送ってもらっているので――」「その入江くんから頼まれたんだよ。今日の昼休みにね」「それって……」「うん」 主任はお昼休みの出来事――わたしと佳菜ちゃんが見ていた後のことを、わたしに話して下さった。 ――入江くんに呼び止められた絢乃会長と主任は、あの後彼と一緒に会長室へ行かれたらしい。入江くんはそこで改めて、桐島主任に頭を下げてわたしのボディーガードを頼み込んだそうだ。『本当はオレがアイツのことを守ってやりたいんですけど、いざっていう時に家が離れてるんで、すっ飛んでってやるわけにいかなくて。それにオレ、ラグビーはやってましたけど、格闘技をやってたわけじゃないし。桐島さんならアイツと家も近いし、キックボクシングやってるんすよね? だったら安心かな、って』 会長からも頼まれて――というか、もう半分は命令されたも同然だろう――、主任は引き受けて下さることにしたらしい。「……というわけなんだ」「主任は……それでよかったんですか?」「うん、会長命令でもあるしね。昨日も言ったけど、大切な部下を守ることも上司の務めだし。それに、入江くんがいちばんもどかしいと思うから。そんな彼の頼みなら断れない」「……そう、ですよね」 わたしにも入江くんの気持ちはすごく分かるし、そう思っていてくれるのが嬉しい。そして多分、主任は義理堅い人なのかな、とも思う、それともただのお人好(よ)しなだけなのかな?「そういうことでしたら、わたしからもよろしくお願いします」「分かった。じゃあ、あまり遅くならないうちに行こう。クルマは地下駐車場に停めてあるから」「はい。わたしも駐車場まで一緒に行きます」 わたしと主任はそれぞれ手早く帰る支度を済ませ、室長や小川先輩に「お疲れさまでした。お先に失礼します」と挨拶をして、二人一緒に地下駐車場までエレベーターで降りていく。 室長も先輩も不思議に思わなかったのは、この経緯をお二人ともご
――初めて挑戦したお客様への応対は、小川先輩にほんの少しだけフォローしてもらったけれどどうにかやり遂げることができた。 お茶菓子にはわたしが選んだ抹茶のロールケーキが採用され、お客様にも喜んで頂けた。それどころか、ご家族で召し上がって頂けるようにと手土産にも同じロールケーキを一本お渡ししたところ、「君は気が利くね。ありがとう」と大変感謝されたくらいだ。「――矢神さん、お疲れさま! でもよくできました」「ありがとうございます、小川先輩。先輩のフォローのおかげですよ」「またまたぁ! 私がフォローしたところなんかほとんどなかったじゃない。あのお茶菓子のチョイスと、お土産に一本差し上げたところなんか私より気配り上手だったよー。あなたには秘書としての素質があると思う」「そんな……、わたしなんてまだまだこれからです。これからもご指導のほど、よろしくお願いします」「謙虚だなぁ、矢神さんは。まあ、そこがあなたのいいところなんだけどね」 ……とまあ、小川先輩はわたしのことをベタ褒めして下さった。自分では緊張でちゃんとできていたかどうか自信がなかったけれど、小川先輩は過大評価をするような人ではないので、この評価はきっと妥当なんだろう。「初めてでこれだけできるなら安心ね、これからは一人で応対してもらおうかな」「えーーっ!? そんなぁ……」「ウソウソ! 冗談だよ。社長秘書は私なんだから、まだサポートに回ってもらうだけ。でも社長は、いずれはあなたを第二秘書に、と思ってらっしゃるみたいだけど」「第二秘書……。わたしが、ですか?」「ええ。あなたは真面目だし優秀だから、任せて大丈夫だろうって。私もあなたになら安心して任せられる」 まだ入社一年目で役職(ポスト)に就(つ)かせてもらえるかもしれないなんて、嬉しい以前に信じられない。夢でも見ているんじゃないだろうか。「ウチの会社ではよくあることなの。特に、絢乃会長が就任されてからはね。だってほら、桐島くんだってまだ二十代で主任でしょ?」「ああ、そういえば……そうですよね。ウワサでは、会長とご結婚された後には役員になられるとか」「そうなのよ。やっぱり、会長のパートナーになるとね、それ相応のポストに就かないとおかしいんじゃないかってことらしくて」「はあ、そうなんですか。主任は確か、婿入りされるんですよね。セレブのお家に
「……なんか、わたしの望んでない方向に展開していってる気がする」「麻衣はそれが不本意なわけ? でも、アンタが安全でいられる方がいいじゃん」「まあ……、そうなんだけど。じゃあわたし、先に部署に戻るよ。給湯室でお弁当箱洗っておきたいし。佳菜ちゃんはゆっくり食べてて。あと、入江くんが戻ってきたら、わたしは先に仕事に戻ったって言っておいてね」 わたしは先にお弁当を食べ終えていたので、まだ食事中の佳菜ちゃんにそう言って席を立った。「オッケー。っていうかアイツ、戻ってくるのかねえ。ラーメン伸びるっつうの」 佳菜ちゃんは入江くんが座っていた向かいの席に目をやって頬杖をつく。そこにはまだ食べかけのラーメンのどんぶりが置かれたままだった。 * * * *「――ただいま戻りました」 秘書室のオフィスに戻って、給湯室で洗ってきたお弁当箱を保冷バッグごとロッカーにしまう。室長はまだお昼休憩から戻ってきておらず、オフィスには小川先輩だけがいた。「ああ、お帰り、矢神さん。――そうだ。二時ごろに、社長にお客様がお見えになるの。よかったらその方の応対、やってみる?」「えっ、わたしが? いいんですか?」「うん。もちろん、あなたひとりに丸投げするわけじゃなくて、私もちゃんとフォローするから。そろそろ本格的に秘書の実務を覚えてもらってもいいかな……と思ってね。室長にも話しておくから」 まだ入社して一ヶ月も経っていないけれど、いつまでも座学で基本的なデスクワークばかりしていられない。秘書の仕事のメインはやっぱり、来客へのおもてなしだと思う。「はい、やってみたいです! ご指導よろしくお願いします!」「分かった。じゃあ、まずはお茶菓子を買いに行こうか。この近くだと、東京駅のエキナカかな」「ですね。どんな飲み物をお出しするかによっても、買うものは違ってくると思うんですけど」「お出しするのは日本茶でいいかな、と思ってるんだけど、お客様はどうも和菓子が苦手みたいで……。どうしようか?」「それじゃ、抹茶系のスイーツはどうですか? 洋菓子でも日本茶に合いそうですし」「ああ、それいいかも! 矢神さん、ナイス!」 小川先輩が、わたしの思いつきを褒めて下さった。というわけで、わたしは先輩と二人で秘書としての初ミッションに臨むこととなった。一人だと不安だっただろうけれど、頼もしい先輩
会長が「場所を変えましょう」とおっしゃったらしく、入江くんと会長、桐島主任の三人はどこかへ行ってしまったので、この場では入江くんがどんな話をするつもりなのか分からなかった。「……入江くん、逃げたのかも」「逃げたって……、何の話?」 わたしはお弁当をつつきながら、「わたしから」とボソッと答えた。昨日、入江くんから電話で遠回しな告白をされ、わたしも思わせぶりな返事をしたけれど、今朝になってそれを「忘れて」と言ったことを彼女に打ち明ける。「だから、さっき佳菜ちゃんに言われたことのせいで、わたしとは気まずくなっちゃったのかも……と思って」「…………なんで『忘れて』なんて言っちゃったかな、麻衣は。入江くんの負担になりたくないのも、ずっと友だちのままでいたいっていうのも、ホントは彼のこと好きだからなんじゃないの?」「……………………それは……うん、そうだけど」 佳菜ちゃんは思いっきり痛いところを衝いてきて、わたしはぐうの音も出ない。「だからお子ちゃまだって言うんだよ、麻衣は。男心ってものが分かってないんだから。男っていうのはねえ、好きな女の子のためなら何でもしたいって思う生き物なんだよ。入江くんだって絶対そう。麻衣のこと助けてあげたいはずなんだから」 佳菜ちゃんはわたしと違って恋愛経験が豊富らしいので、男性の心理というものがよく分かっているのがさすがというべきか。わたしは今までちゃんとした恋愛をしたことがなかったので、そんなこと考えもしなかった。「っていうか、あた
「――でね、朝出勤してきてすぐに会長室に呼ばれて、会長と桐島主任に改めてストーカー被害のことで相談に乗ってもらったの。そしたら、主任がわたしのボディガードをしてくれるっていう話が出たんだけど、断った」「えっ、なんで? ……やっぱ入江くんじゃないとダメなわけ?」「…………そういうわけじゃ、ないけど。わたしの個人的な問題で上司に迷惑かけたくないから」 わたしは佳菜ちゃんの疑問を否定したけれど、「迷惑をかけたくない」というのはただの建前だと自分でも分かっている。 ――と。「――悪い悪い! 仕事が長引いて、来んの遅くなっちまった!」 ホカホカ湯気を立てたラーメンのどんぶりが載ったトレーを手に、やっと入江くんがわたしたちのテーブルへやって来て、向かいの席にドスンと腰を下ろした。彼はいただきます、と手を合わせてから熱々の麺をフーフーしながらすすり始めた、けれど。「そういやさっきの話、聞こえちまったんだけど。お前、桐島さんがガードしてくれるっつったの断ったって? なんで断ったんだよ」 入江くん、さっきの佳菜ちゃんとの会話、聞いてたんだ……。でも、「やっぱ入江くんじゃないと……」の部分は佳菜ちゃんが声をひそめていたから聞こえていなかったらしい。「入江くんも聞いてたんでしょ? これはわたしの個人的な事情だから――」「そんなの、お前の本心じゃねえだろ。付き合い長いんだから、お前の性格はオレがよぉーーく分かってるつもりだけどな」「…………えっ?」 彼は向かい側から手を伸ばしてきて、わたしの頭をポンポンと優しく叩く。「お前さあ、またひとりで何とかしようと思ってるだろ? お前のことだから、まぁた『大丈夫です』とか言ったんじゃねえの? それがお前の強がりだってオレが分かんねえとでも思ってた?」「うぅ…………」「矢神、お前はいい加減、困ったときは周りに助けを求めるってことを覚えなさい。何でもかんでも自分ひとりで抱え込まないこと、いいな?」「…………はい」 わたしたちのやり取りを横で聞いていた佳菜ちゃんが、ククッと笑い出した。「……どうしたの、佳菜ちゃん?」「んー、いや別に。あ~もう、じれったい! さっさとくっついておしまい、お子ちゃまカップル」「「カ……っ!?」」 佳菜ちゃんのトンデモ爆弾発言に、わたしと入江くんは二人同時にフリーズしてしまった。 そ